約束と令和哲学

約束と令和哲学

「意味」とは何か

昨夜は深く考えた。
令和哲学カフェの50回目に参加したからだ。
夫と毎晩参加しているオンラインカフェ「令和哲学カフェ
毎晩開催している。

無料で毎晩、ボランティアスタッフ、ボランティア出演者によって開催されている。

取っても奇異なオンラインサロン。
(細かい定義はわからないが、私はオンラインサロンだと思っている)

さて、昨夜のテーマは「意味」
意味を成り立たせるものは何か。
5人の出演者がNoh Jesu先生のリードの下、意見と意見を対立したり、融合させたり・・・すごい知的エクササイズ。

出演者は今回6回目で、初回とは別人のようにシャープに議論する。
しかもギスギスしたり、見下したり、攻撃したりしない。
常に和気藹々の雰囲気が
気に入っている。

日曜朝の討論番組で
いい大人が
牙むき出しの、低レベルな議論をする。
私は日本人としてあれがとても恥ずかしい。
議論とは自分の論点と相手の論点を攻撃もし、融合もさせられる
事象に縛られずにおこなうのが
スマートで知的な人間のやることだと思っている。

野生動物の唸り合いのような討論番組は
恥さらしでしかない。

令和哲学カフェでNoh先生のカントとニーチェの解析
そして「約束」についての定義が出されていた

本質的に継続した「約束」を守り続けることはほぼ100パーセント不可能だということを理解した。
そこには令和哲学・最終理論・神の数式・共有可能な心が必要だ。
体人間はその4つのどれも持ち合わせることができない。
唯一ホモデウス、ホモマリアスになった令和哲学人間にならなければ
約束を破り続けることしかできないのだ。

曲解かもしれないが
多少約束を破られても他人にがっかりしてはいけない
その人なりの努力はあるし
本人は約束を守っているつもり、かもしれない

動画の時代になり、個人個人の観点・宇宙構成は全くことなる
同じに見えるかもしれないが、それは大きな間違いで
月とスッポンくらい別々の観点、宇宙を見ている

その中で「約束を守る」ことは何より難しい。
令和哲学カフェを見ていれば「言葉」がいかに部分情報なのかよくわかる
私たちは何も知らない、何も知ることができないことが本質なのだから

 

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