人が亡くなるということ
おひさしぶりです。
最近、身近な人を死を通して
いろんな気付きをもらっています。
今まで人生の中で何度も死というものと出会いました。
ですが今回のは何かが特別。
悲しさや苦しさと一緒に
一瞬の蓄積が「生」でもあるということを実感しました。
本当に実感する時には感覚ではなく、仕組みが観えるということを今回あらためて理解することができました。
心がどういう準備をして、その通りになって、それを解析して、当然のようにデーターを蓄積し、それが絶対になる。
その繰り返しをその外にでながら観察してゼロ化して再創造しました。
家族や親戚、信頼する友人達との交流を通して
なにが本当に人間を苦しめているのかもよく観え、
これを越えて行くことができる人類に時代が進化していることもまた、
喜びです。
「死」という概念に正誤はないのです。
あなたにとっての「死」とははんでしょうか。
死と出会うとき、特に死と出会う仕事(志事)をしている人こそ
無意識に規定している「自分なり」の答えを意識化して使うことが必要になります。
無意識のままでは使っていることにはなりませんよね?
無意識のままでは自分の死の概念に使われているとも言えますから。
ですが、その観点固定(答え)から完璧に自由になる境地が必要です。
なぜならその答えはその人にしかわからないし、完璧に自由にならない限り
相手(患者さんなど)の「死」を理解することは不可能だからです。
自分の知っている「死」の範囲でイメージ予測している世界は
とても狭いので
その狭さからくるイメージ不可能な世界、予測不可能な世界は
恐怖や不安を相手にも自分にも与えます。
恐怖や不安からも自由になれるからこそ、選択して恐怖不安を味わうこともできますが
自由になれないのならそれはただの苦しみにしかなりえません。
それをひたすら繰り返してきたのが
今までの認識方式でしたが、新しい認識方式を学び、インストールしていくことが
本来の死の理解だと私は思います。
ちょっと今日は真面目でしたね。
なんだかくすぐったい。
読んでくださって、ありがとうございました。
なおみ
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