苦しくない自殺の方法はわかるけど、決心がつかなかった女医の話
もう10年以上前ですが、私の脳の9割以上を自殺願望が占めていた時期がありました。
ちょっとヘビー寄りの話するので、繊細な人はそっと閉じてくださいね。
いつも頭にあるのは2つのクエスチョン。
いつ死ぬか?
いつでも死ねる
だから、もう1日生きてみるか
もう1日生きてみるか
毎日そう思っていました。
今思えば、考えられるだけまともだったのかもしれません。
どうやるか(どう死ぬか)
首つりでも練炭でも投身げでも
薬物過剰摂取でも焼身でもなんでもいい。
救急外来でたくさん観て来ましたから。
絶対に失敗はしたくない、と思ってました。
自殺に失敗した人が病院に救急車で運ばれて来る。
「この人前も来たな。」
自殺未遂を繰り返す人もちらほら。
未遂の人が救急車で搬送され、回復すると
よかった、と思う反面
なんで失敗するようなやり方でやるんだよ、という考えがいつしか浮かぶようになっていました。
当時の私は大きな救命救急センターに勤務していて、3日に一度は当直がありました。
救急車の当番日には必ず自殺未遂の患者さんを診察していました。
気づけば自分も自殺願望に支配されていました。
自殺患者をたくさん診察しているとそういう心理になる、というのもあるのですが
私の場合は「この人たちは救うべきなのか」という疑問を消しきれないことが
ものすごいストレスになっていました。
いつしか「余計なことをしているのかもしれない」という罪悪感になっていました。
軽傷〜重症・死亡に至るまで色々な患者さんが搬送されて来ました。
当時若手医師だった私をもっとも苦しめたのは「自殺、しかも手を尽くしても助からない」という患者さんを担当した時です。
経験を積めば大抵の場合、搬送時に命が助かるかどうかわかります。
ですが、当時1パーセントののぞみでもあれば最善を尽くす、という職場の方針に違和感を感じていたのです。
本人は生きることを希望していない(自殺だから)
お金が莫大にかかる
医療資源(人-医師、看護師、薬剤師、救命救急士、栄養士、リハビリなど・物・場所-病院のベッド)がかかる
99パーセント助からない(死んで病院から出ることになる)だろう
重症患者に向き合っているときは1分1秒無駄にできません。無駄な考えも必要ありません。だから必死に口や鼻に管を入れ、必要とあらば胸を開き、血管に管を入れ、あれやこれやとやります。
ですから、2〜3時間くらいはむちゃくちゃ忙しい手術のような状態になるのですが
ふと空間がスローモーションに感じることがありました。
「本当にこれは必要なの?」
と誰かが頭の中で囁くのです。
それでも手を止めることはできません。
でも脳内と手元が逆の状態
矛盾している状態はものすごい脳疲労を生み出していました。
そんなことを繰り返すうちに
少しずつ自分の生きている意味や価値を見いだすことができず
毎日十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るイエスのような状態に
なっていたのかもしれません。
自分の人生の終わり方を自分で決めること自体を悪いとは思いません。
ただ別の道が残されているのに
自ら脳に支配されて死んでしまうことは
また同じカルマの繰り返しになり
もっと苦しい人生がスタートするだけだと
私は思います。
この人生でそのカルマの外にでて
換生で生き、生まれた時から悟っていることは可能な時代です。
そのためにもまずは今の人生で「正しく絶望すること」
生きる意味がわからない=正しい絶望ではありません。
仕事がない、お金が1円もないことも
借金で首が回らないことも
取り返しがつかないことをしてしまったことも
正しい絶望ではありません。
正しく絶望することは
上記にあるような中途半端な絶望から自由解放されることでもあります。
気になる方は6月12日、7月4日の絶望シミュレーションワークショップにぜひ参加して観てください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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