続き 〜戦前戦中戦後を生きた祖父〜

今日も北海道は冷えます〜感情が震えるくらい
テンションでごまかせ無いほどの寒さ。
北海道は心も身体も強さが試されますね。
 
 
さて、前回の続きです。
 
 
鉄道事故で前腕を切断され、助けてくれる人も居ない状況で
祖父は一体何を想いながら次の駅まで這っていったのでしょうか。
 
祖父が亡くなった今確認する術はありませんが私はこう想います。
 
祖父は日本のことを、家族のことを考えていただろうと。
そうして身体が思うようにいくようになったら日本のために
家族のために尽くそうと決断したと。
 
片手を失った衝撃は祖父の人生に多大な影響をもたらしていたと思います。
 
その後祖父は祖母と結婚し、二人の子供を儲けた頃に太平洋戦争が始まりました。
当時の日本人(当時朝鮮、台湾、満州も日本領土でしたが)が死力を尽くして世界と戦った戦争
 
70年以上前のことではありますが、国際法や今政治経済の流れもこの時に基盤が決定し今も継続しています。
過去のことですが
今とも繫がっていることを現代を生きる私達は学ぶ必要があります。
 
学校の教科書やテレビマスコミ情報は基本的にGHQの影響化にあり、
日本に対するアメリカの植民地化政策が中心にあります。
 
戦中戦後のことをどの日本人が正しく客観的に観ることが出来たのでしょうか。
IT社会となり、今は様々な客観的情報を入手することができますが
 
情報を入手したとしても日本人のアイディンティティにまでしみ込まれた感覚をどれだけの国民が気づいているのでしょうか。
 
戦争の話を祖父から聞いたことがありません。
今ならなぜ祖父が戦争のことを語らなかったのかわかります。
語らないことが敗戦国として正しい振る舞いだと判断したからではないでしょうか。
 
祖父が戦争に関して発することができた言葉はただひとつ。
「二度と戦争をしてはいけない」
それだけでした。
 
今思えばとても重みのある言葉だったと思います。
思い返すとのど元が熱くなるくらい。
 
真珠湾攻撃をした日本。
アメリカを中心とした大国に歯向かった日本。
裁判とは言えない戦勝国のルールで裁かれた東京裁判
 
子供の時分の私にはその背景も、祖父の隠された涙も、誇りも、憤りも察することは出来ませんでした。
 
祖父が戦後やっていたのは幼稚園と老人ホームの設立、経営、拡大。
 
これが今どんな意味だったのかがやっとわかるようになってきました。
 
強くて賢い子供を育てなければ国は支配されてしまうと思ったのかもしれません。
 
祖父の意志を継ぎ、生死を越えた人間教育に携わるものとして
尊厳そのもので生きる!と、
今日は北海道神宮で誓って来ました。
 
尊い2017年が終わりを迎えます、来年日本は、世界はどんな動きになるでしょうか。
 
日本人として
孫として
 
祖父の行き様に恥じない生き方を選択したいと思いました。
 
 

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尚美

 

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